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前回からのつづき)
日本の工場に置いておいても仕方がなく、すべて船積してシカゴまで送ってきたのであった。さて、この過剰在庫をどのように減らすのかが私の仕事となった。
このころ、1982年ごろは、レーガンさんが大統領で強いドルをという政策であった。1ドルが大体230円くらいだったか。だからアメリカからみると日本の商品はお買い得であった。このレストラン向け機械も安く買えたのだ。それでも一店舗あたり、2万ドルから3万ドルした。決して安くはないが、お店にとっての必需品でもあった。POSはPOINT OF SALESという意味で、販売時点管理システムと訳されている。売上管理や在庫管理をする機械で、いまでは普通になっているが、その当時はようやく導入が始まったころだった。
コンピューター付きのレジだ。端末をレストランのカウンターにおいてお客からの注文を受け、それを打ち込み、売上処理をしつつ、情報を調理場へ送り、調理場での商品を管理するのだ。だから端末が7台から10台くらい、お店のプリンターにキッチンプリンター、コントローラーなどでシステムを組む。動かすソフトはそのコントローラーに入っている。当然、お店の運営に合わせてそのソフトを組むことになる。なるが、お店の運営を知らなくてはソフトが組めない。組めないがソフトがないと商品にはならないので、ソフトを日本で作り、機械に仕込む。商品デモのときには、機械は動くことは動く。ところがテストとしてお店に持ってくると、極端な話、お店ごとに少しずつ運営が違うので差異が生じてしまう。すると使いものにならないのだ。この調整が難しい。時間もかかる。なぜかというと、当時はまだ記憶媒体が貴重品で高価であったので、ソフトを書く言語に工夫が凝らされた。工場ごとに違う言語を使う。しかもその工場ならではの省略をする。つまり方言もできてしまうのだ。だから書き換えになるとその方言の解る人でないとできないのだ。これではお客さんの注文を瞬時に受け付けることは難しい。難しいから治らない。治らないから売れない、ということになる。お客さんの注文を正しく聞き取りつつも、それを機械に反映させなければならない。お客様は神様と言われていたが、神の言葉も時には皮肉にもなる。
そこで、ソフトの解る技術者を日本からアメリカに派遣してもらった。お店での意見交換をし、本部で運営についても教えてもらい、本部の情報部門とも交流を重ね、現地での運営を理解してもらった。その成果をソフトに反映させ、新しいソフトを作りあげてもらったのだ。その新しいソフトの入っているRAMを機械に入れ、デモ、テストと進め、ようやく売れる機械となった。そのソフトを入れ替える作業は勿論倉庫内の事務所で進めた。倉庫に事務所があって本当に良かった。機械が売れ始めたのは良かったのだが、新しい問題が発生した。今度は機械ではなく、人であった。ある日、POS担当のアメリカ人、当時の社長より高給のお客さんのところから来てもらった人だが、その人が辞めるというのだ。ようやく販売も軌道にのり、売上も上がってきて、組織もできつつあるというのに、なんということだ。この“人”の問題解決もまた、私の新しい任務となった。(つづく)