ジャパンうるしネット うるし美し、日本の心
コンテンツ一覧
トピックス
展覧会開催一覧
展覧会見て歩き
うるしの学校
うるしの人 (インタビュー)
うるしのエッセイ
うるしクッキング!
私の好きな私の作品
BOOK'Sレビュー
リンク集
バナー広告掲載案内
お問い合わせ
現代工芸ギャラリー 酉福
やきものネット 陶磁器・陶芸の総合情報サイト
ジャパンうるしネットのバナー 自由にお使いください

ジャパンうるしネット www.japan-urushi.net/

展覧会見て歩き

 


高木さん

漆象シリーズ 包み(2003年)

盛鉢 街(B)(2002年)

根来輪花大鉢(2002年)

大皿 軌(1997年)

漆の島(1995年)

花文丸弁当(1993年)

草文二段弁当(1993年)
高木さんが漆の世界に入ったのは、高木さんと同じ香川県出身で、 彫漆(文末注参照)の人間国宝、音丸耕堂のすすめがあったからである。高木さんの年譜を見ると、 「1951年、人間国宝音丸耕堂に師事して絵画を学ぶ」とある。絵画? 漆の誤植ではないか。最初そう思った。

音丸先生は東京で戦災に遭い、高松に疎開してきたのですが、そこでも戦災に遭ってしまい、困っていたのです。 そんなとき、私の同級生に、親が鉄工場をやっている人間がいまして、戦需景気で羽振りがよかった。 そこで音丸先生に多度津(高木さんの出身地)においで願って、その同級生の家に滞在してもらうことになったわけです。 音丸先生は絵が非常に上手で、町の人に絵を教えることになった。まあ、遊びですね。私も絵が好きで、高校2年だったのですが、 そこに入れてもらえたんです。他の人はみんな大人なんですよ。それで一晩に2、3時間教えてもらった」

高木さんは工業高校の機械科に通っていた。いくら絵が好きだといっても、画家になるとか工芸の道に進むことなど、 まったく考えていなかったから、3年になり、就職ということになって、高木さんは造船所の試験を受けて合格した。 しかし音丸先生は、自分の息子が芸大に通っていることもあり、「あなたも、もう少し絵をきちんと勉強して、 画家になるとか工芸家になるとか、そういう道もあるんですよ」と高木さんにすすめる。試しに受けてみようという気になり、 芸大を受けたら合格してしまったのである。

「そのころ、漆芸科の科長は松田権六先生でね、面接のときに、なぜこの学校を受けたのか聞かれたんです。 それで、音丸先生に紹介されてというと、漆はかぶれたりして大変だよというんですね。案の定、 入学してすぐ、全身がかぶれました」

これが「漆のうの字もなかった」高木さんが、この世界に入った経緯である。

入学して1年ほど、高木さんは音丸耕堂の家に居候をしていた。そして漆の塗りを手伝った。なにしろ彫漆は、何回も何回も塗らなければいけない。先生が全部塗っていたのでは、作品などできない。漆の層の厚みを出すのは弟子の仕事である。それにしても、漆の世界に誘い、居候までさせてくれるとは厚遇にもほどがある。音丸耕堂は高木さんの才能を見抜いていたのである。そうとしか考えられない。

大学3年のとき、油絵に気持ちが行きかけたことはあったものの、無事卒業した高木さんは、特許庁に就職する。審査官である。

「東京にいないとダメだという思いがあったんです。新しい時代の空気を吸っていないと新しいものは作れない。 東京で生活するためには就職しなければならない。そこで特許庁に入って、意匠の審査官を4年10カ月やりました。 特許庁にはあらゆる商品が集まります。世の中にこんな商品があるのかとビックリしたし、当然ながら、 いいものと悪いものがあるということもわかった。いいものを使ってもらい、 みんなに豊かになってもらうのがものを作る人間の役割ではないのか、だんだんそう考えるようになっていきました」

当時、工芸家になるには日展に応募し、受賞を重ねていくというのが通常のコースである。高木さんも応募し、入賞もした。 しかし、何となく「自分には日展はぴったりこない」と感じていた。日展が目指すのは、ごく限られた階層の人のための作品であって、 たくさんの人に喜ばれるものを作っていない。どうもウマが合わないのである。そのころ高木さんが作っていたのは、彫漆とはいえ、 竹と組み合わせたり、ガラスを彫って樹脂を流し込んだり、「異端というか八方破れ」のものだった。


鳥(1957年)

内朱ボール(1957年)・内朱三つ組ボール(1962年)

柿花文茶櫃(1967年)

彩線ボウル・彩線皿(1985年)

和蘭陀独楽盛鉢(1992年)

漆象シリーズ 港町(2003年)

そんな折り、アメリカからデザイナーを呼んで講演会が開かれ、高木さんも出席した。 アメリカのデザインの様子や手法の話を聞き、高木さんは愕然とする。 自分が大学で学んだものとはまったく違ったからである。 もっと世界を知らなければと思った高木さんは、留学を考える。 日本貿易振興会が1年間、デザインの研究のために留学させてくれる制度があることを知った高木さんは、 特許庁を辞めてしまう。その制度の応募資格は、公的機関でデザインの指導をしている人間だったからだ。 特許庁は審査するところであり、指導するわけではない。そこで郷里の香川県のデザイン指導の嘱託になった。 高木さんは留学試験に合格して、ニューヨークに行く。 「なぜニューヨークを選んだかといえば、当時のアメリカはバブル期で、ニューヨークでは世界博をやってました。 デザインの勉強もさることながら、世界のマーケットの動きを知ることも大切だと思ったんです。行ってみると、 産業は大変盛んなんですが、もの作りという点では、人間性に欠けるきらいがあった。 それに反対して、アート・アンド・クラフトといいますか、それを志す人もいました。 このアート・アンド・クラフトの考え方を日本の伝統工芸の世界に適用すればいいのではないかと思いました」

帰国後、漆や木工の産地を巡り、デザインの指導をする、そして日本の地場産業を世界に発信できるものにする、 これが留学の条件だった。実際に高木さんは各地をまわり、伝統的な技術を生かしたさまざまな商品開発に関わることになる。  

「自己表現というより、産業的な中で仕事をしていこうということです。アートなものも、一つの経済の素材として、輸出して、お金になって、日本はもっと豊かにならなければならない。そのためには、もっといいものを作らなければならない。そういうことです。自分は、だから芸術家ではなくプロレタリアートであると(笑い)」

この4月から、高木さんは多摩美術大学教授から名誉教授になった。そのこともあって、今回の展覧会は回顧展でもある。 そこで高木さんの前半生を少し詳しく紹介したが、この展覧会、美術館の二つの階を使い、約200点を展示している。 壮観というほかない。高木さんの48年間に及ぶ仕事をじっくりたどることができる。普通、半世紀も前の作品ともなれば、 資料的な価値に終始するのではないかと思うが、どの作品も新鮮だ。リバイバルで新鮮だという意味ではない。本当に新しいのだ。

最も古い作品の一つ、芸大を卒業して間もないころの作品「鳥」は、木とブロンズという、硬軟の異素材の組み合わせが緊張を生んでいる。同時期の「内朱ボール」などはとても47年も前のデザインとは思えない。また、ある産地の漆器店のためにデザインした「彩線ボウル」「彩線皿」は、あまりむずかしい技術を使わなくても誰にでも作れるものを考えたという。高木さんが名人の世界ではなく、産業の世界で仕事をしてきたことをよく物語る作品といえる。大は家具から小はステイショナリーまで、中間には陶器、曲げ輪っぱ、ガラス、漆絵、とにかくその幅の広さに驚かされる。

そうして圧巻はやはり最も最近の「漆象(しっしょう)」のシリーズだろう。ここでは高木さんは、これまで常に第一に考えてきた 「機能」をちょっぴり後退させ、むしろ漆の表現というものを前面に出している。

「これらの機能ということでいえば、インテリア・アクセサリーといいますか、オーナメント(装飾)といいますか、 そういう役割はあると思います。ただ、機能性の追求というのは、もうたくさんの人がやっている。私自身が漆で表現する、 漆で人に何かを伝えるとき、もうそんなに機能がいっぱいあるということを強調しなくてもいいんじゃないか。漆で作れる美しいものがあるはずだ、 漆で美しいものを作ろうとすると、ものの形はどうなるのか、そういう気持ちで作っているんです」

あまり色を使わず、漆の基本的な色である朱と黒でほとんどを構成している。しかも高木さんが好んで用いる塗り立て (塗りっぱなしともいい、表面を鏡のように磨かない手法)で仕上げている。その単純で力強い造形は、空間を不思議な安定感で満たす。

私たちはまだ漆を使い切っていない、と高木さんはいう。現在のテクノロジーの中で漆をどう使えばいいのか、まだまだだというのである。 日本の漆の現状は、お世辞にもいいとはいえないが、高木さんは「クラフト・ルネッサンス」のチャンスだともいうのである。

2004年はまだ四分の一が終わったにすぎず、今年の収穫をうんぬんするには早すぎるが、この展覧会が今年の最も重要な漆展の一つであることは間違いない。

(注) 彫漆 漆を何回(時には200回以上に及ぶことも)も塗って厚い層を作り、そこに彫刻を施す技法の総称。同じ色を塗り重ねたもの(堆朱、堆黒、堆黄)と2色以上の漆を塗り重ねたもの(紅花緑葉)に大別される。同じ色を塗り重ねた場合でも、単色の層にはならず、彫刻の断面を見ると、1回1回が木目模様のように淡く出る。漆は100回塗り重ねても3ミリぐらいの厚さしか出ないといわれ、根気のいる技法である。


文と写真: 岡崎 保
*タイトル写真は「漆象シリーズ 港町(2003年)



花器半月−網目と菱目(1990年)

がら筋文盛皿(1962年)

家族(2001年)

日の出角鉢(1966年)

月光(2002年)

飯器 へら付き(1998年)

「高木晃展」は2004年3月23日(火)〜4月7(水)まで、東京都多摩市落合1-33-1 多摩美術大学美術館(?:042-357-1251)で開かれている(4月6日は休み)。時間は10時〜18時(入館は17時30分まで)。入場無料。  


高木晃(たかぎ・あきらか)さんのプロフィール
1933年 香川県多度津町に生まれる
1951年 人間国宝の音丸耕堂に絵画を学ぶ
1952年 東京芸術大学美術学部工芸科漆芸入学
1955年 安宅賞受賞
1956年 東京芸術大学卒業。サロン・ド・プランタン賞受賞。特許庁に審査官として入省(〜1961年まで)
1958年 第1回日展入選
1961年 デザイン事務所設立
1963年 香川県木工指導所デザイン指導員になる。ニューヨークにデザインの勉強のため留学(日本貿易振興会からの派遣。1年間)
1969年 日本デザイナークラフトマン協会理事に就任
1970年 多摩美術大学助教授に就任。通産省グッドデザイン選定委員
1977年 多摩美術大学教授に就任
1998年 デザイン功労者表彰受賞


Copyright 2000-2005 Japan Urushi-Net