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展覧会見て歩き


会場に入り、作品を見始めてすぐ、自分が緊張しているのに気づいた。どの作品もピー ンと張り詰めている。それが伝わってきて、思わず背筋が伸びる。  しかし、これは何だろう。ほとんどの作品が黒で、しかも光っている。壁に飾られた作品は例外なく、真横に線が引かれ、上下の世界に截然と区切られている。いうまでもなく水平線であったり、波打ち際であったりするわけだが、その線は上下の空間がせめぎ合ってできた皺(しわ)のようにも見える。  きれいに塗られた皿の中央が少し波打っている。そのことが平らな表面を際立たせる。

榎木啓さん

花器「夜の門」

「潮音」と「花文椀」

「想」

「月相」

 金色の月は冴えざえとして、孤独そうだ・・。  花器であるかもしれない、盤であるかもしれない、皿であるかもしれないし、盆であるかもしれないが、しかし、これらの作品を使おうと発想する人が何人いるだろう。椀以外はまず鑑賞用の美術作品だと思うのではないか。ところが、それでは困ると榎木さんはいうのである。

「まず使ってみたいなと思わせないとダメだと思うんです。でも、考えないと使えない。ある種の人にとって、考えるということはわずらわしいことですよね。これだけ光っていると、手入れもわずらわしいと思うはずです。そういう緊張感、わずらわしさを楽しむぐらいになってほしいなと思うんです」

 また、こうもいう。

「使いにくいなあ、はまだいいんです。使いたいけどめんどくさいし、値段も高い。それなら、また作ろうという元気が出ます。でも、使えない、じゃあ困るんです。そういわれたら、私はどうして生きていけばいいのかわからない」

 若いときから榎木さんは自分の気持ちに正直に、作りたいものだけを作ってきた。それを「使え」というのだから、わがままといえばわがままである。しかし、そのわがままな発言の背景には、たとえば次のような経験があるのである。

「あるお客さまで、板谷波山の青白磁の香合を持っているという方がいらっしゃったのです。その香合を乗せる台を何年も探していたのだが、見つからなかった。それで私の「潮音」と題した作品に乗せてみたいというわけです。これが似合いなんですよ。もし、波山のこういう香合があるから、それを乗せる台を作ってくれと注文を出されたら、はたして自分はこういうものを作れたかどうか、多分、作れなかったでしょうね」

 作り手の想像を越えた使い方というものがあるはずだし、作り手が使い方まで考えるのはつまらないというのである。自分の作品は、いったん生活の中におさまったら、なかなかいいぞ、という自負も、もちろんある。たしかに、ほかのものでは代替がきかなくなるだろう。

 どんな技法を使っているのか聞くと、「単純にいえば研出蒔絵」と教えてくれたが、その話には榎木さんは全然のってこなかった。その理由をこう説明する。

「技法が形を生むこともあるし、大事な要素ではあるんですが、仕上がった作品に仕事が見えたら、あまりいい作品とはいえないですね。なんかいいな、それでスーッと入っていける、中身はそれから、というふうになりたいわけです。材料も、合板だろうが樹脂だろうが、気にしません。本堅地よりウレタンのほうが長持ちするなと思えば、ウレタンを使います。表現したいものに材料を合わせるんです」

 わがままもスジガネ入りなのである。ハードの話は内輪の話、ソフトの話をしよう、ということでもあるのだろう。  そこでソフト、すなわち榎木さんの描く世界の話になる。  波もあるし、水紋もある。漁火も輝いている。しかし、どこまでも静かである。「しーん」というのは日本独特の擬態語だそうだが、しーん、という音が聞こえてきそうだ。そして「静謐」という言葉が思い浮かんだ、まさにそのとき、榎木さんがいった。

「まだまだ恥ずかしくて、そんな言葉は不用意に使うべきではないのですが、静謐という言葉が好きなんです」  

「十六夜」

「あげは」

「銀花文」

「海景」

「春景」
 それにしても、これは大変な世界だなと想像はできる。たとえば水紋の凹凸にしても、それをいくつにするか、どのぐらいの高さにするか、悩み始めたらきりがない。中央の横の線にしても、どの位置に置くか、試行錯誤があったそうだ。

「どこだっていいんですよ、位置なんか。デザイン的な、平面構成的な感覚で決めるのではなくて、自分が風景から感じたままにやればいいんです。20年やってきて、最近、そう思えるようになりました」

 波の高さも低くなってきた、星の数も減ってきた、少しずつそうなった。最終的には「黒い板」でいいのかもしれない。ただ、いきなりそこへ行くのはスタンドプレイだ。100歳になって気がついたら、奥村土牛の富士山みたいになっていた、そうなれたらいいな と、榎木さんは笑う。

 榎木さんの作品から感じるのは、一種の「位の高さ」だ。それが見る人の緊張を生むのだろう。

「いま、普段使いの日常品がバーッと出ていて、雑誌なんかでも取り上げられて、ちょっとしたブームみたいになっているでしょう。それは自分も大歓迎なんです。ただ、毎日使えるからよくて、3カ月に1回しか使えないからよくない、ということではないと思うんです。使い道の違いなんですよ。床の間が偉くて、地べたが偉くないんじゃないんです。そこに合ったものがあればいいんです」

 今回の取材で目からウロコが落ちる思いをしたのは、写り込みのことである。漆の作品の撮影はプロでも難物なのだが、それは写り込みがあるからだ。なにしろ研かれた漆は鏡と変わらない。特に黒はそうである。天井が写る、障子が写る、撮影者が写る。それらをすべて取り除くには、スタジオでよほど注意深く角度や光の調節をするしかない。素人の手に負えるものではないのである。ところが、榎木さんの皿に、たとえば庭の木や花が写り込むと、黒い皿が庭の風景を切り取るカンバスと化すのである。それはそれは美しい。

榎木さんは「写り込みがないのは異常な状態です」と看破している。なるほどそうだと、その言葉にすがって撮影したけれど、やはり難しかった。何が写り込むかで、まったく表情が変わる。ぜひ機会を作り、写真ではなく本物を見てもらいたいと切に願うが、しかし、これまで邪魔者としか思わなかった写り込みが、漆を楽しむひとつの方法であったとは驚きだった。

 最後にちょっと面白い話を紹介しておこう。榎木さんが今日あるのはお父上と角偉三郎さんが先輩として存在していたことが大きいという。お父上には「お前のは破綻がない」といわれ、角さんには「啓ちゃんのはマジメや」といわれたそうだ。「破綻がない」も「マジメ」も言葉上は悪い意味ではないが、榎木さん自身は少し否定的に解釈しているようだ。誰にでも頭が上がらない人はいるものである。



「邂逅1」

「邂逅2」

「水面」

「榎木 啓 漆展」は2005年1月13日(木)〜1月17日(月)まで東京都渋谷区神宮前1−15−4 ブラームスの小径 ルセーヌ3号館 菓匠 寿々木(電話03-3404-8007)で開催。時間は11時から19時まで(最終日は18時まで)。

文と写真: 岡崎 保 


榎木 啓(えのき・けい)さんのプロフィール
1949年輪島市生まれ
1973年武蔵野美術大学卒業。父親の盛氏に師事


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