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展覧会見て歩き



"漆の神様"松田権六(まつだ ごんろく)の展覧会が東京国立近代美術館工芸館で開かれている。始まってから2週間が過ぎた12月14日、いそいそと会場に出かけた。

なぜ2週間も待ったかといえば、この日、漆芸家 室瀬和美さんのギャラリートークがあるからだ。室瀬さんの解説で松田権六の作品が見られる・・・こんな贅沢な機会はそうあるものではない。

しかし、考えることはみな同じらしく、漆の展覧会としては異例の盛況で、会場は熱気に包まれていた。ひとつひとつの作品の前で室瀬さんが解説するというスタイルだが、まわりをびっしり漆ファンに囲まれ、室瀬さんの顔が上気しているのがわかるほどだ。



松田権六の図案日誌


拓本

今回の展覧会は出品点数は多くはないのだが、図案日誌やスケッチ、拓本など珍しい展示物があり、松田権六の制作プロセスがよくわかる好企画といってよい。

また、室瀬さんの解説で、なぜ松田権六が神様といわれるほどすごいのかをかいま見たような気がした。

展示は「第1部 金沢時代から終戦まで」と「第2部 戦後 図案から作品へ」の二部に分かれていて、作品は時代順に並んでいる。スタートは高校時代に作ったとされる「蒔絵福寿草文小盆」。

とても高校生が作ったとは思えない。



蒔絵福寿草文小盆

室瀬さんの解説はこうだ。

「ただの研出蒔絵ではなく、洗い出しという手法を使って、地にざらざらした感じを出しています。

当時先生は五十嵐派の勉強をしていたのですが、ただ教わった通りに作るというのではなく、必ず自分なりの工夫をするという姿勢が、もうこの頃から感じられます」

この答えではちょっと納得できない。作品の迫力に見合っていない気がする。しかし、なぜ自分がそういう作品を作るのかなど、作者にだってわからないのかもしれない。

次に原画を模写した作品。室瀬さんの解説を聞かなければ、「さすがにうまいものだなあ」であっさり通り過ぎてしまったかもしれない。

「昔のものを勉強するには模写・模造がいちばんだと、先生はいつも言われていました。しかし、ただ模写するだけではなく、昔のものよりよくならなきゃいけない、昔のもののままじゃいけないというのが口癖でした。

原画と先生の模写をようく見比べてみてください。模写のほうがいいです。たとえば鳥の羽の枚数は模写のほうが多いです。線も細い。木の幹の抑揚も、原画にはないけど、先生はつけちゃってます。

この絵の中心は鳥ですから、原画は葉っぱは投げやりに描いてます。ところが先生は葉っぱの縁まで緊張感を持たせて描いています。先生はその画面に物足りなさを感じたら、それを描き足して充実させ、その画面を完成させる。

それが先生独特の模造であり模写なんです」


芸大卒業制作の「草花鳥獣文小手箱」

芸大の卒業制作で作った「草花鳥獣文小手箱」の解説は、前半のクライマックスだった。

少し長くなり、専門的にもなるが、松田権六のすごさがわかるので、解説を再現してみよう。

「当時の卒業制作は材料を全部学校が負担してくれたのだそうです。その代わり作ったものは学校に置いていくというシステムでした。しかし、これだけのスケールで金を蒔くということになると、とても負担してもらえない。

そこで先生は仲間の卒業制作を手伝い、アルバイト代の代わりに残った金粉を全部もらったのだそうです。

だから、この作品をよく見ると、金色が場所によって違います。金の純度が違うからです。このへんは18金、このへんは銀をちょっと使ってる。粒子も粗かったり細かかったりしています。それがかえって面白い。

このボディーは乾漆技法を使っています。先生は90年の生涯でたくさんの作品を作られましたが、乾漆は数えるほどしかありません。ぼくが知っているのはこれと、輪島の研修所にあるものと、2つだけです。恐らく出てきても、あと1、2個ぐらいでしょう。

その意味で非常に貴重な作品です。

蓋の内側の獅子
なぜ金の野で鳥や獣たちが走りまわっているのか。これは蓋を開けてみないとわかりません。今日は特別に中を見られるよう許可をとってあります。

蓋をさかさまにすると、ごらんのように獅子が吠えています。吠える獅子に驚いて、鹿や鳥やウサギたちが逃げる様を描いているのです。先生のものすごい物語性がここに現れていると思います。

先生は新しいものが大好きで、人のやらないことに挑戦する人でした。この作品も研ぎ切りと引っかきという技法が使われています。

当時の採点する先生たちに、この作品は伝統的な技を全然使っていないじゃないかという評価があったそうです。そこで先生は蓋裏に高蒔絵という伝統的な技法で獅子を描いた。採点する先生たちはグウの音も出なかったというエピソードが伝えられています。

仲間の制作を手伝った関係で、自分の制作はいちばん最後になってしまい、時間がありません。恐らく1ヵ月もなかったと思われます。一発勝負で作らなければならない。そこで先程いった研ぎ切りと引っかきの技法を使うわけです。

まず蒔絵筆で黒く見えている動物の輪郭をとります。そこに乾漆粉という黒い粉を蒔きます。羽の部分の少し薄茶の部分がありますね。そこは炭粉と金粉を混ぜて蒔いたそうです。そうして濃淡のある表情を作ります。この後、漆をいったん少し乾かします。乾ききってしまうと引っかけませんから、そうですね、ぼくが試したところでは4時間ぐらい乾かします。そして漆が少し締まったら、その周りを全面地塗りして、バーっと金を蒔きます。そして輪郭線をメドに、一気に引っかきに入ります。

だから、ようく見ると、黒い部分では漆が締まっているので、線が固く、細くなっています。金地のところでは下の漆が柔らかいので、太く、伸びやかに金粉を引っかいた跡が見えます。これだけの模様を1日で作ってしまうんですから、ものすごい技です。後戻りができない技です。

実は身のほうにも特殊な技法を使っています。これは立ち上がりに薄貝を使った、いわゆる螺鈿です。ところが、使い方がとっても特殊です。これは切り抜いた薄貝ではありません。貝を板のように貼り並べます。そこに漆で模様を描きます。すると模様は漆の色、それ以外は貝の色になりますね。そしていったん乾かしたら、そこに塩酸をかけます。漆は酸に強いので溶けません。模様の部分の貝は残り、それ以外の部分は溶けてなくなり、地の部分になるわけです。

結果的には、模様は筆描きのやわらかい螺鈿という不思議な空間が表現されるわけです。おそらく先生は、漆は酸に強いということを見せたかったんだと思います。こうすれば漆の強さと貝の美しさを全部見せられると考えたのでしょう。

20代前半の卒業制作の段階で、先生はすでに漆をどうアピールすればいいかということがわかっていたのではないかと思います」

興味深いエピソードや実作者ならではの技術的な解説は、後半に入っても続くのだが、その全部を再現することは到底できないので、断片的な紹介にとどめざるを得ない。



蒔絵撥鏤双雀文雪吹

蒔絵松桜文棗

象牙をくり抜き、染めて嵌めこむ「撥鏤(ばちる)」という技法を使った「蒔絵竹林文箱」の隣には拓本が展示されている。

よく見ると鳥が拓本にはない。鳥を入れる前の段階で写しとられたものであることがわかる。

「このあたりから、先生は制作の途中で図柄のチェックをするようになります。必要なら途中でもどんどん修正をしようという気構えがうかがえます。絵師が描いた図柄をどれだけ忠実に作るか、それが蒔絵師の評価の基準で、自分の意思など加えてはいけないのが蒔絵です。

つまり「なぞり」こそが蒔絵師の仕事だったのです。

ところが先生はそうじゃない。自分の考えで、自分のデザインで、気に入らなかったら途中だろうがなんだろうが直すんだということです。

普通、研出蒔絵は修正がききません。しかし先生はそれを可能にする技術を工夫する。あるいは特殊な材料を探す。そして高さ(段差)を残すために、模様だけを塗込む方法を考え出す。段差があるからこそ、この拓本もとれたわけです」


蒔絵螺鈿有職文筥下絵(一部分)

蒔絵螺鈿有職文筥」「蒔絵玉すだれ文盤」は、当時出始めた白漆を使いたくて作ったのではないかと、室瀬さんは言う。

「先生は昭和天皇の『即位の太刀』のを塗るように仰せつかりました。

何しろ神聖なものですから、樹齢100年を超えるような木からとった漆が使われたそうです。普通我々が使うのは15年前後の木からとった漆です。全国を探させ、群馬県の榛名山の麓にあったそうで、その木の写真が残っています。とにかく太い木で、大人が3人ぐらいで抱えるくらいのものです。この樹液がまた、非常に透明度が高く、全然黒くならないのだそうです。

『即位の太刀』が完成し、これだけの道具と材料が余りましたと宮内庁へ差し出したら、そんなかぶれるものはいらないといわれたそうです。


蒔絵玉すだれ文盤

了承のもとに頂いたその漆で作ったのが「蒔絵玉すだれ文盤」です。

面白いのは、予想以上に白が鮮やかに出たらしく、玉すだれの花が前面に出て、目立ちすぎてしまったらしいのです。そこで仕上がった後、緑の色漆で拭き加えています。

そんなこともします。平気でいろんなことをする先生です」

正倉院を調査した際のスケッチについては、こんなエピソードを紹介した。


正倉院御物模写(一部分)
「このスケッチは現物を前にして描かれたものではありません。与えられた時間は限られていて、その場ではじっくり見るだけ。描くのはホテルに帰ってからです。

(別に用意したコピーを出して)

これは先生が描いたスケッチと本物とを比べたものですが、寸分たがわず見事に再現しています。

先生はよく『わしはいつでもスパイになれる』とおっしゃっていましたが、五感を研ぎ澄ましてものに接触した証です」


槇柏蒔絵手箱

室瀬さんの解説は2時間を越えた。しかも終わってしばらくは、熱心な漆ファンの質問に答えていて、なかなか解放されない。

しかし、何とかインタビューすることができた。


・・・本当にお疲れさまでした。ところで室瀬さんと松田先生はどんなおつきあいだったのですか。
室瀬

ぼくの父親が六角紫水先生に入門したとき、松田先生も教わっていたんです。六角先生のつながりですね。

ぼくは生まれていませんでしたが、戦争で松田先生が焼け出されたとき、家が同じ池袋だったこともあって、先生ご一家がしばらくうちに逗留なさったそうです。

ぼくが大学に入って漆を始めることにしたとき、父親に連れていかれて、それが正式には最初ですね。もちろんその前から知ってはいましたけど。

・・・松田先生の授業を受けたりということはなかったのですか。
室瀬

ぼくと先生は50歳ぐらい年齢が違います。

ぼくが大学に入ったときは、先生は退官してもう人間国宝になっていました。だから、ぼくが教わったのは個人的にお宅にお伺いしてです。

・・・どんな方だったのですか。
室瀬

いや、もう厳しい先生でした。ぼくらは孫の年代ですから、直接叱られるようなことはなかったですが、ぼくらの先生ぐらいの年代の方は、かなり怖かったようです。

それは仕種が怖いのではなくて、勉強の姿勢ですね。人にだけ厳しいのではなく、自分に対しても厳しいから、怖いわけですよ。

・・・近づきがたい感じですか。
室瀬

獅子蒔絵香合

やっぱり松田先生の前に出ると緊張しましたね。勉強してないと質問もできないわけですよ。本当によく知っていらしたし、勉強もしていらっしゃった。だから、先生にやりなさいといわれたことは、なるべくやろうとしました。

ぼくが保存・修復を始めたのも、先生に

作るのと直すのは同じぐらいのウェイトがある。勉強になるからやりなさい

といわれたからです。

・・・松田権六の最大の功績は何だとお考えですか。
室瀬

蒔絵は技術者はとことん技術、デザインをやる人はとことんデザインという分業の世界でした。それを全部自分一人でやった最初の人ですね。六角先生が理論的に確立し、松田先生が実践したということだと思います。

職人から創作者になった最初の人、漆の歴史を近世から近代に移行させた人といってもいいでしょう。

大きな仕事は戦時中にやってるんです。漆のない大変な時代に、とことん漆をやってる。逆境に強い先生ですね。

・・・本など読むと、万年筆に漆を塗ったり、とても進取の気性に富んでいたという印象があります。
室瀬

鶴亀蒔絵棗
あの時代は、新しいものを探りにみんなヨーロッパや海外に出かけた時代です。そして、ヨーロッパナイズされて帰ってくる人と、逆に日本回帰して帰ってくる人と両極端に分かれたのです。

松田先生はヨーロッパを見たために余計、日本の伝統を生かさなければと思って帰ってきた。

日本の伝統をヨーロッパに輸出するんだと考えて、化粧品のパッケージデザインなんかも手掛けられた。本当に新しいことに挑戦する人だったと思います。

自分たちのほうが挑戦力が足りないですね。
・・・厳格な面とパッケージデザインもやってしまうという面を併せ持っていた。
室瀬

そのへんがすごいと思います。芸大の先生をやり、作家もやり、古美術研究もやり、デザインもやる。自分の少ない時間をよく割り振ったと思います。

亡くなるまで現役でした。

・・・どうもありがとうございます。

文: 岡崎 保



展覧会のチラシより

松田権六 図案と作品

平成15年1月8日まで、東京国立近代美術館工芸館で開かれている。
問い合わせはハローダイヤル 03-5777-8600まで。
なお、東京芸大教授 増村紀一郎氏によるギャラリートーク12月21日(土)午後2時から行われる予定。


松田権六 略年譜
1896年 石川県金沢市に生まれる。生家は農家
1910年 石川県工業学校(現・石川県立工業高等学校)漆工科描金部に入学
1914年 東京美術学校(現・東京芸術大学)受験のため上京。六角紫水を訪ねる。東京美術学校漆工科入学
1919年 東京美術学校漆工科卒業。陸軍に入隊(1921年まで)
1921年 楽浪郡遺跡から出土した漆工品の調査・研修・修理に携わる
1925年 株式会社並木製作所(現・株式会社パイロット)入社
1927年 株式会社並木製作所を退職し、顧問となる。東京美術学校助教授となる
1928年 日本郵船の照国丸、靖国丸の船内装飾を手掛ける
1929年 岩崎小弥太邸の室内装飾完成
1933年 文部省派遣によりイギリス、フランスをはじめとする欧州各国へ視察旅行。この頃から「図案日誌」を始める
1938年 ニューヨーク万国博覧会日本政府出品「蒔絵大衝立」の工事設計および監督として制作に着手
1943年 東京美術学校教授となる
1945年 池袋の自宅が空襲で全焼
1947年 帝国芸術院会員となる
1953年 正倉院御物の漆芸品調査を行う
1955年 重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)に認定される
1976年 文化勲章受章
1986年 90歳で死去

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