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三代目村瀬治兵衛さん

襲名記念展を前に抱負を語る―
三代 村瀬治兵衛さん

村瀬治さんがいよいよ「三代村瀬治兵衛」を襲名することになったので、10月23日からの襲名展(日本橋三越)を前に、抱負などをうかがった。
インタビューを始める前に、三代の流れをざっと紹介したい。
初代治兵衛は1897(明治30)年、名古屋の木地師の家に生まれた。「透かすと向こう側の光が見える」といわれたほどの薄手の挽物を得意としていたが、荒挽の大胆さも身につけ、現在の治兵衛の作風の基礎を作った。魯山人とも交流があり、魯山人の木地師、塗師として椀を作ったことでも知られる。
初代は東京にも商売を広げていたが、1951(昭和26)年には一家で東京に転居した。
二代治兵衛は1927(昭和2)年、名古屋生まれ。県立工業学校図案科を卒業して家業に従事した。根来塗・独楽塗を得意とし、現在の治兵衛の作風を確立した。1976(昭和51)年、二代治兵衛を襲名。この間、1957(昭和32)年に三代目が誕生している。

インタビュアー岡崎 保 okazaki@japan-urushi.net

松 帽子棗
根来塗水次
■いちばん大変なときに取材などお願いしまして、恐縮です。襲名展まであと10日ほどですが、いまどんな状況ですか。

村瀬 全部で200点ほど展示する予定ですが、まだできていなくて、てんてこ舞いしています。お茶の道具を作っている関係で、各流派のお家元にご挨拶にうかがったりしているうちに、予定がずれ込んでしまいました。襲名といっても、私は簡単にご報告だけすればいいぐらいに考えていたのですが、まわりの盛り上がりがすごいんです。一生に一度のことだから、できるだけの応援はするとみなさんおっしゃってくださって、中には「毎月1万円ずつ積み立てている」なんていう方もいて、私の予想を超えた「おおごと」になってしまいました。

■となると、自ずから心境の変化などもあるのでしょうか。

村瀬 まわりからこれだけもり立てられると、いままでみたいに勝手なことはしていられないなとか、もっといいものを作らなきゃいけないとか、そりゃあ思いますよ。完成したと思っていた作品も、まだ足りないんじゃないかと不安になって、もうひと手間加えたりしています(笑)。

■若いころは、勝手なことをやっていたのですか(笑)?

村瀬 自分のオリジナルを出したくて、実験的な作品をだいぶ作りましたね。パステル調の色を出したり、山吹き色の強烈な顔料を使ってみたり。10中8、9が失敗でした。口ではみんな「面白いね」といってくれても、売れないわけですよ。2、3回展覧会に出しても残ってしまう。そうするとさらし者になっているようで、引き上げて塗り直したりするわけです。今回の作品なんかも、100パーセント自分の中から生まれてきたというのではなくて、きっかけはまわりから与えられた作品が多いんです。たとえば以前の作品について「もう少し女性的な雰囲気がほしい」といわれたとします。その言葉がずっと気になっていて、あるとき、そうだと思って、次の作品になる。まわりが治兵衛に何を望むか、それによって私も動かされていくということでしょうね。

■襲名の経緯はどういうことだったのですか。

村瀬 実は数年前から襲名の話は出ていたのです。21世紀になることだし、2001年は巳年で、襲名には縁起がいいなんていう人もいて、3年前から材料の支度はしていました。そこへ父が体を悪くして表へほとんど出られなくなったものですから、いよいよということになったわけです。

■襲名によって生活が変わるというようなことはあるのですか。

村瀬 心配なのは、大好きな木を削る時間が減るのではないかということです。というのは、これからは営業的なものに時間がとられるんじゃないかと思うんです。いままではすべて父まかせでしたから。私はどうもお客さまと話をするのが苦手というか、品物の説明はいくらでもするのですが、父なんかのやり方を見ていると、説明なんか全然しないんです。世間話をしているだけ。それでお客さまも喜んで買ってくださる。カリスマ的なところがあるんですね。私はそのへんに自信がなくて、襲名にも腰が引けていたのですが、そんなことはいっていられなくなりました。なにしろ、いいものさえ作っていればそれでいいという時代ではありませんから。

吉野金峯山寺蔵王堂古材縁高

■これだけは変えないで継承していくというものがありますか。

村瀬 治兵衛は代々木工ろくろの木地師であったわけですから、木の魅力を最大限に引き出していく。これがひとつです。それから、親から子、子から孫と何世代にもわたって使ってもらえるようなものを作るということです。それが漆本来の姿なのですから。だから祖父や父の作った椀を持っている人には、私の椀は売れないということになりますが、それでいいんです。適当に壊れて買い換えなけばいけないようなものを作ったほうが、経済効率はいいかもしれませんが、漆はそういう現代の価値観とまったく合わないですね。

■そのへんが、いま漆が苦戦している原因でしょうか。

村瀬 私がお客さまに「これは何百年ももちますよ」と説明すると、「私はそんなに長生きしないから」といわれてしまう。一方、作る側は作る側で、孫子の代まで使えるものを作ろうという意識が希薄です。たとえば、鉄筋コンクリートにむくの木の柱を立てるのは、私はもったいないと思います。鉄筋コンクリートはせいぜい70〜80年しかもたないでしょう。そこに山奥から伐り出してきた樹齢300年とか400年の木を使うと、木は何百年ももちますから、木が天寿をまっとうする前に木を殺すことになる。反対に、何百年も受け継がれなければならないお寺や神社に、新建材をつかったりする。これへんですよ。

■自分の代になって、いままでの治兵衛をこう変えたいというような思いはあるのですか。

村瀬 作品面では、いままでも父とはかなり違うことをやってきたという思いはあります。同じ根来でも、これは自分の作品だとわかってもらわなきゃ面白くないですから。だから今後も、三代目より二代目のほうがよかったなんていわれないように、自分のやり方で作っていくつもりですが、ただ、世間が「治兵衛はこうだ」と決めている部分もあるので、それには耳を傾けていかなければならないとは思っています。強いて変えるとすれば、インターネットを使った販売を研究してみようかとか、自宅にショールームを作ろうかとか、そんなことを考えている程度ですね。どこにいったら作品が見られるのかと、よくきかれるもんですから。

根来塗干菓子盆
■三代目の仕事には四代目の育成もあるのではないですか。

村瀬 中1と小4の娘がいますが、女の子には木工は無理ですね。何しろ丸太との格闘技みたいなところがありますから。自分の子どもではなくても、治兵衛の作品に惚れて、やりたいという若い人がいれば、私の持ってる技術、知識、感性、全部伝える気持ちは十分あります。ただ、現実的には、いま後継者を育てるような余裕はまったくないです。木工ろくろでお金を取れるようになるには10年はかかります。その間、給料を払いつづけなければならない。昔みたいに飯だけ食わせればいいという時代じゃないですから。その上、ずっと座らせて仕事をさせていたら、腰痛になってしまい、それが労働基準法にふれたたなんて話もあるぐらいです。私がやってこれたのは、こういう家に生まれたからです。

■今度の展覧会をもって三代目になるということですか。

村瀬 そうです。初代から二代目へ移ったときは、かなりあいまいだったんだそうです。時期もあいまいだし、作品もどこからが二代目なのか、はっきりしなかった。だから、今度ははっきり区切りをつけようということにしました。

■プレッシャーもあるでしょうし、ストレスはたまりませんか?

村瀬 傑作ができるのが、いちばんのストレス解消です。完成したときは、全部傑作のつもりなんですけどね。「できた、できた」といってこの工房から持ち出して、家のものに見せにいくんですけど、「どうだ、できたぞ」といって見せるのが、最高のストレス解消です。

■どうもありがとうございました。ご成功をお祈りします。

展示作品を説明してくれる村瀬さん

「襲名記念 三代村瀬治兵衛漆芸展」 東京展
会期 10月23日(火)〜29日(月)10時〜19時(最終日は16時30分まで)
会場 日本橋三越本店6階美術特選画廊 TEL 03-3241-3311
「襲名記念 三代村瀬治兵衛漆芸展」 大阪展
会期 11月16日(金)〜22日(木)10時〜19時
会場 ギャラリー堂島 TEL 06-6345-9363

三代村瀬治兵衛(むらせ・じへい)さんのプロフィール
1957年 二代目治兵衛の長男として東京に生まれる
1980年 東京造形大学彫刻科卒。家業に従事
1989年 池袋西武担い手3人展開催
1991年 京都嵯峨吉兆にて父子展開催。この年より2、3年に1回父子展を各地で開催
2001年 三代目治兵衛(木地師としては7代目)を襲名
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