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佐藤阡朗さん訪問記
塩尻に着いたときは、いい天気だった。駅まで佐藤さんジキジキのお出迎えである。初体面の挨拶もそこそこに、佐藤さん運転の車に乗り込むと、明るい空から雪がちらついてきた。佐藤さんの自宅・工房がある木曽平沢まで、25分のドライブである。
雪の話からだったろう、佐藤さんは運転しながら、もう漆の話を始めた。こちらは取材の態勢が整っていない。
「寒いときは氷点下15度、夏は30度を超えることもあるんです。昔は30度なんてめったにならなかったんだけど、最近の夏は暑いんですよ。だから、寒暖の差が45度。その中で漆を乾かさなきゃならない。木曽に来なきゃ、そんな調節の仕方なんておぼえなかったでしょうね」
佐藤さんは青森県八戸の出身だが、木曽に移り住んでもう30年以上になる。
「高校を卒業して八戸を出ようと思ってね、東京に就職したんです。口実ですよ、就職するとでもいわなきゃ、出にくいんですよ、田舎は。会社には半年ぐらいいましたかね。最初から長く勤めるつもりはないんだから、ひどいもんです。それで、アルバイトをしながら多摩美を受けまして、最初の年は、どんなもんか様子を見てやろうということでね、予定通り落ちました」
そんな話を聞いているうちに、到着。雪はちらつく段階を超えて、普通の降りになっていた。
玄関のわきに「創元舎」と書いた30センチばかりの板が立てかけてある。
「郵便屋さんが、これじゃわからないっていうんだけどねえ」と佐藤さん。こたつのある居間に通され、背中からはストーブにも暖められ、すっかりリラックスしてしまう。
多摩美の彫刻科に入学した佐藤さんは、3年になるとき漆の仕事をやろうと決意する。
漆の世界は「何となく神秘的で、伝統工芸展などを見ても、これ人間わざじゃないな」と思っていたのだ。
しかし、どうすれば漆の世界に入れるのかわからない。そこで『日本漆工の研究』という専門書を買ってきて、何回も読んだ。さらに、漆器の産地を訪ね歩いた。
産地を歩いてわかったことは、どこかひとつの産地にはまってしまうのは「危ない」ということだった。では、どうするか。ここからが佐藤さんのスゴいところである。「漆の神様」といわれていた松田権六に「私は将来、こういう漆の仕事がしたい」という手紙を出したのである。もちろん一面識もない。
「松田先生から返事が来たんです。人を見ないと判断できないから、何月何日にいらっしゃいと。そして文末に、貴君の文章には、誤字、脱字、意味不明の箇所が多々あり、今後注意されたい、と書いてあった。最近、こういうことをきちんといってくれる人がいないでしょう。ありがたいなあ、立派な人だなあと思いました」
松田権六との会見は6時間に及んだ。対談風に構成してみよう。
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松田
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どういう人になりたいのかね?
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佐藤
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漆のあらゆる様式、技法に精通し、高い技術を身につけたいのです。日本だけでなく世界の工芸の歴史や現状も把握したい。
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松田
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漆の職人は、それぞれのパートのプロフェッショナルで、それが集まってひとつのものができる。きみのように、あれもできる、これもできるというのは欲張りすぎで、そんな人はいませんよ。
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佐藤
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でも、ひとつの産地、ひとつの技法だけに終始するのではなく、漆をトータルに扱いたいのです。
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松田
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私は7歳で漆の世界に入りました。きみはもう20歳をすぎている。
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佐藤
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でも、やりたいと思うことは悪いことではないんじゃないでしょうか。
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松田
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きみもガンコだねえ。わかりました。そういう人間がひとりぐらいいてもいいでしょう。山中の呉藤友乗さんを紹介しますから、弟子入りしなさい。きみはスタートが遅いのだから、ほかの人と同じにやっていたのではダメですよ。
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こうして佐藤さんの死にものぐるいの修行が始まるのだ。松田先生からはきゅう漆(塗り)の修行は2年で終えなさいといわれている。
「ヘラづけ7年、ハケ3年」を2年で終われというのは、いくらなんでも無理というものだが、佐藤さんは朝は6時に起き、寝るのは深夜の2時という猛烈な生活を開始する。ところが、それだけではなかった。松田先生は1年に1000枚、3年で3000枚のデザインを描けと電話で指示してきた。ただでさえグロッキーの佐藤さんは、そんなことできないと反論した。
松田先生はいった、「きみはトイレでは何もしないのか」。
3年後、3000枚のデザイン画を持って松田先生を訪ねると、ペラペラと見るだけ。佐藤さんは、血と汗と涙の結晶なのだから、もう少し丁寧に見てくださいとお願いした。松田先生はこう答えた。
「ここに『佐藤阡朗のデザイン日誌』と書いてあるじゃないか。日誌なんか人に見せるもんじゃないよ。井戸の掘りはじめなんて、濁った水しか出ないもんだよ。でも、続けていれば必ず澄んだ水が出てくる。さぼったらダメだ。また濁る。これからも続けなさい」
結局、佐藤さんは山中に4年半いたが、こんなこともあった。
寝ても覚めても「技術、技術」と思っていたころのことだ。ある日重箱をつくっていたら、一人の男が佐藤さんの仕事をじっと見ていた。佐藤さんは自信満々だった。
技術は誰にも負けないと思っていた。その男がいった、「それ、何ですか」。誰が見たって重箱に決まっている。佐藤さんはムッとして「重箱ですよ」と答えた。
男はなおしばらく無言で佐藤さんの仕事を見ていたが、去り際にひとこと、「不便な重箱でしょうね」といったのだ。何者なのか。
後で先生に聞いてわかったのだが、その男は佐藤さんが漆の世界を志したとき懸命に読んだ『日本漆工の研究』の実質的な著者、沢口滋さんだった。それから迷いが始まったが、結局、佐藤さんは技術至上主義から目覚めた。
「ところがね、これがまずいんですよ。たまに原稿なんか頼まれて、技術はもういい、なんて書くでしょう。そうすると、安心しちゃうやつがいるんですよ。そうじゃない、技術が未熟なんていうのは、最初から話にならないわけでね」
外を見ると、すでに薄暗く、ちょっとした吹雪の様相を呈している。しかし佐藤さんは、時には大声で、文字にできないような話は小声で、表情豊かにしゃべり続ける。話が過去から段々現在に近づくにつれ、怒りの分量が多くなっていくようだ。
「過去の人たちがつくったものが、なぜあんなにすばらしいか。道具も刃物も回転速度も、いまのほうがはるかにいい。なのに昔のもののほうがすばらしい。いまは、人の息吹が介在できないぐらい高性能なんじゃないか。高性能が人を殺しているんじゃないか」
「私は普通のものをつくりたいんです。そのためには自分が普通のおっちゃんでいたい。だから、絶対にひげをのばさない、バンダナをしない、髪を後ろで束ねたりもしない、作務衣も着ない。それしかアピールする力がないのかと思うんです」
「外国に行けば行くほど、日本の工芸文化のすばらしさを思い知らされます。たとえば着物ひとつとっても、単に織物としてすばらしいばかりじゃない。着物を思い、用意し、着て行動し、たたみ、しまい、洗い、次に備える、そういう一連の作業が文化なんです。それを捨てるのか。そう考えると、私たちの使命は重大です。独創性だとか個性だとかオリジナリティだとか、売れる売れないだとか、そんなものは何の基準にもならない。妙な独創性を出すぐらいなら、昔の通りにつくれといいたい」
佐藤さんは今年還暦を迎える。
「75歳まで生きるとして、あと15年しかない。残り少ない時間とエネルギーでつくらなきゃいけないのに、どうして気にそまないことをやらなきゃいけないのか。冗談じゃないという気分なんですよ」
工房を見せてもらった。佐藤さんはここに朝7時から夜8時まで座っている。休みは日曜だけ。それで十分という。
すっかり日が暮れた。また駅まで送ってもらう。吹雪である。雪道に慣れないドライバーは困る、などと話す。でも話題はやっぱり漆にいく。
「漆は焼きものと違って、ケアの仕事です。焼きものは釉薬の垂れ具合とか、いわゆる偶然がお金を稼いでくれるけど、漆は計算しつくす仕事。もうかりません」
佐藤さんは最後に「悲観はしてませんよ」といった。雪道が少し明るくなった。
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●佐藤さんの次回の個展は3月21日〜4月15日、軽井沢ぼんぼん坂の「とう華」(TEL0267-44-6755)で開かれる。
●佐藤さんのホームページは「創元舎」。
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佐藤阡朗(さとう・せんろう)さんのプロフィール
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1942年 青森県八戸市に生まれる
1963年 多摩美術大学彫刻科入学
1965年 松田権六の導きで呉藤友乗に入門
1966年 この年から3期に渡って石川県伝統工芸者養成研修講座で加飾を学ぶ
1968年 輪島の明漆会に参加
1970年 木曽平沢へ移り住む
1972年 工房をつくって独立。以後東京を中心に全国で個展を開く
1993年 株式会社「漆工芸 創元舎」を設立
1995年 国立近代美術館へ招待出品、ドイツ・ミュンヘンで個展
1996年 この年から長野県技術アドバイザー
1998年 世界漆芸交流展台湾へ招待出品
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